更新自体がだいぶご無沙汰になってしまいましたが、その間もいろいろとありました。
そして、新しい発見も。というか、「前言ってたこれって、こういうことや!」みたいのです。
最近誰とoranjeの話をしても、
「ゆるやかに」というキーワードをやや強調しながら話しています。
それは、当ブログ【”すき”なものさがしのジレンマ(11/4)】でも触れた、小学生の多忙化問題を発端として、
「なんでゆるやかな時間が必要か」という問いに自分なりに解を出せたからです。
はじめは
「もっとゆったりすれば、いろんな隙間ができていろいろ考えられるし、いろんな経験をさせることもも良し悪しだなぁ」
程度の感覚だったのですが、あるパートナーとのやりとりによってほんの少し体系化できたのです。
あるはじまりコースのパートナーとのやりとり。
このパートナーは、けっこうおしゃべりが好きで、なんでもいろいろ話して教えてくれたり、
学びの時間も、こちらの「なんで?」「どう思った?」(などなど、反射的に答えられないような問い)に
かなり辛抱強く「あぁ言えば、こう言う」で返してくれていました。
そのパートナー、習い事を増やしたみたいで、(彼なりに)忙しく、体力的にもきつい生活になってきたようです。
そしたら、しばらくしたある日の学びで、いつものように「なんでなん?」「なるほど、他になんかあるかな?」みたいな問いを投げかけると、
「知らーん」「わからーん」でサラリ、サラリとかわすようなやりとりがありました。
「今日はいつもと違うね、調子悪いの?」なんて聞いても本人には自覚はないよう。
「まぁそんな日もあるか」くらいだったのですが、お母様とそのエピソードを話していると、
「あの子最近忙殺気味で・・・」なんて仰ってました。
生活全体のことなので、何が起因しているかはなかなかわからないことではありますが、一つの要素にはなっていると思います。
そこで、タイトルにかえってきますが、気づいたのは「体力」が必要だということ。
ただ、ここでいう体力には2通りあります。
からだ的体力とあたま的体力
イメージ的には『体力』っていうざっくりしたゲージをみんなもってて、
それを何%かずつ配分しながら何かしらの活動をしている。
で、疲れるとゲージそのものが小さくなっていくイメージです。
からだ的体力を使うと、あたま的体力にまわす体力がなくなるので思考が停滞気味になる。
逆にたっぷり考えた後は、へとへとになって「もう遊ぶのもいや」みたいな状態になる。
だから、
「適度な運動で頭が冴えてくる」
っていうのはそれぞれどんなバランスかわからないけど、自分に合った程度で運動をしているので、
どちらの体力も最大化されている状態になって、からだもあたまもスッキリする!ということ。
だから、まさに〈適度〉。
逆に言うと、この〈適度〉を知っていれば、問題を打破しやすくなると捉えることができるかもしれません。
ちなみに、このゲージそのものを大きくするのが、トレーニング。
からだ的体力は言わずもがな、
あたま的体力も「もうこれ以上何も出てこない」状態まで到達すると頭が疲れて、
そのあとじっくり休むと体力になってムキムキになる。
だから、oranjeでは、省察以外はかなりゆるやかな時間の中で学び、基本的には「たのしい」と思うことをやり続ける。
ただし、省察ではとことんツッコんで「もうこれ以上でない」状態をつくる。
で、また楽しく活動しているうちに、体力が回復してムキムキに。
そしてまた疲れるまで頭を使う→楽しむ→・・・のループを創ってる。
「あぁ~そうやってうちのパートナーは学んでいくんだ」
と、わかっていたけど「そうやったんか」と気づかせてもらえるエピソードでした。
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