「ふつう」ということ

はじめての更新になります。
今回は、「ふつうである、ということ」についてです。

 

この話は、よく耳にする、
「ちょっと変わってるね」とか
「あのひと独特だね」とかって
言葉から端を欲しています。
(いずれも悪意はなく、一種の誉め言葉として使っている場合が多いと思います。)

 

これもなかなか見過ごせないところなのですが、
それよりも私が違和感を持ったのは、
それを言われた側、あるいは傍から見た側の話です。
(大学生くらいのひと同士が話しているのを見ました)

 

「選択の科学(シーナ・アイエンガー)」には
「ひとは他人とは違った反応を好んで選択する」という
経済学の視点からの研究結果が示されていました。

 

今回の話もそこに少しふれるなぁと思います。
「変わってる」とか「独特だね」とか言われることに
やっぱり少し憧れたり、うらやましい気持ちがあるということ。

 

で、oranjeでは自由研究をたくさんしてもらうのですが、
基本的に自分のこだわりやすきなものを深めていきます。
だから、その研究を少し話しただけでは、
表面的にはひとに伝わりにくかったり、あるいは表面的にしか理解できない場合がよくあります。

 

先日の大学生くらいの話では、
「伝わらないのは、自分が独特で変だからだ」って少しうれしそうにしているわけです。
しかも、それでわかりにくい部分を省いたり、あきらめたりする方に向きながら…。

 

私自身の話では、「変わってるね」とか言われることは少なくありませんでした。
が、私としては「だれよりも最もふつうだ」という主張をはじめからしていたのです。
(そこが変だと指摘されたこともありますが笑)

 


ここから教育の話になっていきますよー◎
最近「省察」という言葉がキーワードになっています。

 

これは具体的に何をしていくかというと(私の解釈です)、
「表面的に出ている部分からその人の”すき”や”こだわり”がどんなものなのか」
を徹底的に深めていくための対話です。

しかも、これは日常的に行われるのがいいように思います(経験的に、ですが)。

 

要は、省察ってのは「”変わっている”を”ふつう”」にしていく営みなのかなぁ、というのが最近の気づきです。
この発想・丁寧な営みがない限り、
「他人から自分」・「自分から自分」にする”枠決めの教育”
から脱することはなかなか難しいのかなぁとも思います。
まぁ枠決めをしてもらうと一時的には楽で行動的にもなるのですが…。

 

ここから広がることは山ほどあるのですが、
十分に長くなったのでここらへんで…。

 

oranjeでは、自由研究ベースで省察によって深める学びがあります!

興味のある方はぜひご連絡ください◎