自由研究は「意味のないことをやってこそ」自由研究だ

ここのところ発見が多くてうれしいです。どうも冨永です。

 

さて、毎年卒業生たちは、自由研究全体を通して悟りの境地を開いていってくれるのですが、

今年もまた新しい悟りを啓示してくれました。今回はそのお話し。

 

前提として、みんながやってることは全く意味がない

トんだ見出しから入りますが、安心してください。最終的には「意味あります」っていいますので。

出典が古い、、、

 

今年これから卒業していくパートナーのテーマは「キャベツ」。

真っ二つに切ってみたところその瞬間からキャベツが「膨らんで」元の形に戻らなくなったことから始まりました。

だから、「これってどうなってんだ?」ってことで、

来る日も来る日もキャベツを真っ二つにして観察を続けては、条件を変えて再実験してたんです。

 

大体こんな感じなんですが、

これ自体が「将来何に使うんだ」とか「これがどう役に立つんだ」と言われても、

「まあ、あんまり意味はないですね」

としか答えようがありません。

 

他のパートナーたちを見渡してもこんなのばっかり。

「これやってて意味あるんすか?」

と聞かれても、

「まあ、あんまり意味はないですね」

しか本当に出てこない。

 

「わかりやすさ」と「市場価値」、それと「アート」

ところで、先日大学にあそびに行くと同期が大学院生として戻ってきてました。

暇そうだったので延々としゃべってたのですが、そこで美術作品の話になりました。

おもしろいなと思ったのが、「わかりやすさ」と「市場価値」のこと。

なんてことはない、「わかりやすいとみんなに買ってもらえるから市場ができてそれが価値になってる」って話。

 

みんなが、

「あ、これ便利、使いたい」とか

「いいな、おれもほしい」ってなったら、

買っていくから、その市場がのびる。

意味わからんくなくて、みんなが「わかるぅ!」って言える。

みんないいと思ってる

 

一方で、アートってのは、

「まあ、いいと言われたら確かにいい」

「〇〇が言うなら、いいような気がしてきた」

って感じですごいいい加減。

へたしたら、

「あんなん落書きやんけ」

って人もいるかもしれない。

「わかるひと」「流されるひと」「わからないひと」に分かれる

 

実は、僕の修士論文は、「アート性」ってところに着目して、

教育はサイエンスじゃなくてアートなんや、っていう解釈で進めました。

(長くなるのではしょりますが、)オチは、

「個人の経験はさまざまだけど、その経験が、ある問題を解決したり、ものをつくったりするのにヒントになってる」

というもの。

それぞれの経験って、わかりにくくてまさにアートっぽい

 

時代との整合性は教育考えるうえでけっこう大事

基本的に、「まなび」と時代はフィットしないといけない

高度成長期にはひたすらインプットすることが大事だったので、そういう教育がされました。

先が見えやすい成長をしていたので、それでよかったわけです。

 

一方、いまは、

くしくも新型コロナウイルスで、ほぼどんなひとにもわかりやすい形として現れたグローバル化に個人のレベルで直面しています。

これくらいの不透明さはきっとこの先しばらく続きますし、それをひとりひとりが乗り越えないといけない。

 

いわゆる「正解のない社会・世界になった」わけです。

 

この世界では、明らかにわかっている答えにそれほど価値がなくなりました

(そういうものは調べてすんじゃったり、それだけだと人びとがハッピーにならないから)

 

だから、個別のストーリーにのっかったなにか、が重宝されるわけです。

困ったことに(困ってないけど)、

個別のストーリーの色合いが濃くなるほどアート性が強くなるので「わけわかんなくなる」けど。

 

それでも「意味ないこと」をやり続けるのは、意味を見つけることが今の学びだから

冒頭にかえりますが、

今年卒業予定のパートナーはここをクリアにしてくれました。

つまり、

「そんなのやって意味あるの?」

をやり続けて、

「こんな意味が出てきたよ」

という発見をしてくれた。

 

つまりつまり、

超個別の経験から生まれたアート性の高い活動から、

「みんながしたい」と思えるような「それをやる意味」を見出してくれたのです。

 

これはもう機会主冥利につきる。ありがと。

★まとめ★